楠沢朱泉
ジャンル:現代
場所:直指庵
Jikishi-an
京都で過ごした学生時代、私は一人になりたくなると、よく直指庵を訪ねていた。
最初に行こうと思ったきっかけは簡単なことだ。
テレビドラマでよく使われるからと大覚寺に行ってみたかった。
ところが、京都中心部からはやや離れていて、周りに有名な観光名所が無かった。
ふと、地図を見た。
大覚寺に比べれば本当に小さなところだったけれど、皆が知らないようなところに行くのが本当の通なのだと、実に素人考えがよぎった。
京都にありがちな作り上げられた庭園ではなく、背後の山と一体化し程よく手入れされた庭。
地面を真っ赤に覆い尽くす紅葉。
観光客も少なく、まず修学旅行生は来ない。
落ち着いた雰囲気。
私は一瞬で気に入った。
しかし、それだけではなかった。
そこには小さな建物からは想像できない大きな世界が広がっていた。
眼をつぶると私は何にでもなれた。
庭を眺める私は俳人だった。
静かな空気をどのように言葉で表現するかに頭を悩ませていた。
畳に正座して、過去の観光客が書き散らした「想い出草」ノートを眺める私は引退した教師であった。
心の中で一人ひとりに声をかけていく。
畳に寝転んで天井ばかりを見つめる私は世捨て人だった。
世間のしがらみに疲れ、妻と子を捨て誰もいない山里に逃げてきた。
銀婚式を迎えた熟年夫婦、武士を支える妻、田舎の祖父母宅に初めて一人で来た小学生等など。
私は時間を忘れて様々な人生を垣間見た。
気付くと一人になりたいはずの私の周りをたくさんの人々が囲んでいた。
すると今の自分の悩みが大したことのないように思えてくるのである。
あれから十年以上たった今は、生活するのに必死であのころほど悩まなくなったし、引っ越しをして簡単に訪れることもできなくなってしまった。
でも、今でも辛いことがあると、私は大学時代に戻り、大覚寺の裏を通ってあの小さな庵に向かって歩き出すのだ。